ふるさとは、私を覚えているだろうか。

二階堂のあゆみ

その透明な軽快さゆえ
”現代的(モダーン)”な酒と
思われるむぎ焼酎。
だが元祖である二階堂むぎ焼酎の
ルーツは寛文(西暦1670年頃)の
ある事件にまでさかのぼる。

昔寛文の頃(西暦1670年頃)日出町の古刹康徳山(コサツコウトクザン)、松屋寺(ショウオクジ)の小僧某が豫てより寺に造ってあった甘酒を飲みたく思っていた処、適々和尚の外出せしを好機と、多量盗み出し十分飲み、尚後日のためにと、之を壺に入れ附近の麻畑に埋めて置いた、ところが味が全く一変して清酒(スミザケ)となり、しかも一種の風味があり、美酒となっていた、此の事を知った嶺外宗松大和尚(二代目)は時の日出藩で名君と云われた木下右衛門大夫俊長公に此の美酒を奉った、そこで俊長公は此の美酒の製法をとどめ、麻地酒(アサジザケ)と名づけ、藩の手で醸造に着手、以来明治まで藩の将軍献上品として、その名が高い銘酒であり、文人墨客の詩歌にも盛んによまれ、また左党の通人の垂涎おくあたわざるものであった逸品である。此れを現在に受け継いでいるのが「大分むぎ焼酎二階堂」である。

「麻地酒」は左党の”夢の一杯”として文人墨客の詩歌に盛んに詠まれている。

ふらすこや 影さへ見ゆる麻地酒  一招(いっしょう)
爺婆の 昼間遊びや麻地酒  闌更(らんこう)

いずれも江戸は寛政年間の句である。闌更は芭蕉ゆかりの俳人で当時は京都に住んでいたというから「麻地酒」が趣味人の間でいかに広く知られていたかしのばれる。
また、大分が誇る儒学者帆足万里は日出藩家老として仕えたが、晩年は思うように飲めなくなった「麻地酒」を城中の人に無心する手紙を残している。

「麻地酒」の伝統を受け継ぎむぎ100%の焼酎が生まれたのは現六代目当主の時代である。若き当主は天然醸造ゆえに腐敗しやすい「麻地酒」を改良するために醸造酒から蒸留酒へ切り替え焼酎の製造を開始する。さらに昭和26年、麦の統制がとれてからは今迄の麹(こうじ)は米で作るものとの常識を破り米も穀物、麦も穀物、米で出来る麹が麦で出来ないはずはないと、麦麹の製法に没頭した。麦が健康食品として注目されてからは麦だけの焼酎の開発に専念。そして昭和48年、むぎ100%の本格焼酎第一号が発売されたのである。

二階堂酒造は此の銘酒「麻地酒(アサジザケ)」の製法を受け継ぎ今日に至ったが、古来より天然醸造のため、永らく貯蔵すると、味覚を損じ又腐敗しやすいので永年の研究により醪(モロミ)の上清(ウワズミ)を蒸留製成し、皆様の健康を考え、原料に総て「むぎ」を使用、ついに大分むぎ焼酎二階堂を完成したもので、その芳醇な香りと、まろやかな舌ざわりは、左党の求める恋人の如くあり、一度飲んだら忘れられず、今日なお垂涎の的として愛されつづける所以である。なお製法は、家伝として代々後継者のみ受継がれ門外不出であり、それ故に他の醸造場と異なり、他から杜氏(トウジ、醸造の技術者)を雇うことなく跡継ぎが杜氏となり当場独特の製法により、家内醸造として現在もなお継承しており、他の追随を許さぬ特産品である。